函館市のご紹介(ブログ練習)

※ブログ練習と題しまして、授業にていただいたものを引用して投稿します。


現在の函館市は人口約26万人、北海道でも札幌、旭川より小さな都市となりましたが、大正9(1920)年の第1回国勢調査では、人口14万5843人で全国第9位、札幌や仙台を上回る北日本一の大都会でした。

北海道は元々蝦夷地と呼ばれ、和人の少ない土地柄でしたから、函館の発展も遅く、18世紀末に高田屋嘉兵衛がやってきてようやく北前船の交易都市として栄え始めました。

ところが高田屋は、嘉兵衛の跡を継いだ2代目金兵衛の時代にお取りつぶしとなり、函館の町も意気消沈しました。

しかし幕末、ペリーが日本にやってきて開港を迫ったことから、函館は日本最初の貿易港の1つとなり、再び繁栄を取り戻します。

以後、西洋文化がいち早く取り入れられ、「ハイカラ都市」として知られる函館の基盤がかたちづくられました。

観光客に人気の元町教会群も、そのころ盛んに外国人が来訪し、キリスト教文化を伝えたことによるものです。西洋の食文化が広まったのも早く、函館の老舗レストランの五島軒は、戦前に朝から市民にスープの出前をしていたといいますし、大正13(1924)年には、ヨーロッパから食肉マイスターのカール・レイモンさんが移り住み、市内でハム・ソーセージづくりを始めています。

同じく大正時代、そのころ函館の一等地だった十字街に、銀座通りというモダンな通りが出現します。銀座通りには、当時は建築費が非常に高く、日本ではまだ珍しかったコンクリートやモルタル塗りのビルの立ち並び、モダンガールの行き交うカフェ街として賑わい、連夜、遅くまで人通りが絶えなかったといいます。

すでにそのころには、明治時代の終わりごろより、函館を拠点に始まった北洋漁業が巨万の富をもたらしていました。

市内に残る「上下和洋折衷建築」は、2階が洋風、1階が和風という函館ならではの様式で、羽振りのよかった海産商たちが、店舗兼住宅として競うようにして建てたものです。今も店やレストランとして使い継がれているものが少なくありません。

すぎのはらの函ねこ探索記

私が残したいと思う場所を。函館市内の野良猫出現スポットの探索日記。函館の魅力発信のために地域住民しか知りえないようなお話をブログ内で投稿します。

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